2016年09月21日

生命操作の問題(4);患者団体や当事者の存在

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、生命操作の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す限りで、6回分のエントリーを使って大雑把に整理してみたいと思います。

 4回目の今回は、実際の医療を受ける当事者としての患者や医療従事者の存在に向き合います。
 ともすれば、医療従事者は患者の生命維持や生活の質の向上、病態の除去の助力をするための存在で、患者はその助力を受ける存在、即ち医療従事者がサーバントで患者がクライアントであることが医療の全てと思われがちな節がありますが、必ずしもそうではないことを理解するのが目標です。
 その構図の中のどこかに、実は医科学研究や医療技術開発の当事者の入る余地も、最先端に近い医療になればなるほど、入ってくるのです。

1)医療の理想像の変遷
 古代の呪術医や近代以前の思弁的な伝統医療の頃はさておき、近現代の医学において、医療の専門家として科学的な専門知に基づき医療行為を行うという医療従事者(特に医師)のモデルが確立したのは、実は 19 世紀後半のことです。しかしながら、古代や近代以前から「呪術者」「知識人」「研究者」「技術者」「援助者」の5つの立場を巧みに使い分けてきた医師の在りようは、その医療行為における患者との接点において、今なお大なり小なり残っていると言えます。
 その影響ゆえ、専門知や現場知、及びそれらを駆使する術の総体を、それらを必ずしも知らない存在である患者に提供する医療従事者の行為としての医療は、科学コミュニケーションの用語で云う「欠如モデル」的なものとして長く続いてきました。とはいえ、患者とひとくちに言ってもその構成員は多様で、何かの専門家がたまたまその医療行為におけるクライアントで居るだけと云う他無い場面も多く、他方で 90〜00 年代から社会問題化した各種の医療事故や、世界各地で起こってきた患者の意識向上なども影響し(担い手の例は幾つもありますが、米国の NCPIE=全米患者情報教育協議会を例に挙げておきます)、「患者の権利」の顕在化を経て、医療行為を医療従事者と患者が共に作っていくという考え方が普及してきています。ただ、それは、医療倫理における医療従事者の責務として、標語的に言及されてきた文言(「ヒポクラテスの誓い」や「世界医師会ジュネーブ宣言」など)の実践的な再発見としての意味も持つでしょう。
 また、医療の需要や疾病の社会構造も変容しつつあり、社会の高齢化や慢性疾患の増大、先天性疾患への理解の漸進などにより、「絶対治療・絶対救命」から「現状とのギャップの改善」へ、「治療のための一時的な行為」から「病や体質と向き合う人生の支援」へ、即ち「治す」から「支える」へと、医療行為の重点的な意味合いが変わってきています。
 そうした観点に立つと、やや強引ですが、医療従事者は一般に、自らが何かの専門家でありながら、同時にある専門家と非専門家の間をつなぐ科学コミュニケータとしての立ち位置を持つと言えそうです。例えば、看護士や薬剤師なら、医師と患者、医師と製薬企業、検査技師と患者、医科学者と他の医療従事者をつなぐなど。そうした繋がりの場の集積が、全体として医療行為のシステムを作っていると考えられます。

2)進歩した医学、医療における患者と医療従事者
 医療や医学の学術的、技術的な進歩の存在に関しては言を俟たないところで、その最先端に関連するところはこのシリーズの第2回第3回で触れました。
 その中で、実際にそれぞれの持ち場を担う存在としての、生命科学研究者、生命科学以外の基礎科学の研究者、生体医用工学などの応用分野の研究者、医用技術の開発や社会実装を担う技術者、実際の医療現場で患者と相対する医療従事者としての医師(歯科医師を含む)、看護士、薬剤師、介護福祉士、各種療法士などは、それぞれの専門性を持ちながら、個々の持ち場で責任範囲の仕事を果たして、全体として医療や医科学の構成に寄与しています。
 ただ、丸山真男のいう「タコツボ型とササラ型」を持ち出すまでもなく、その全体像の中で自らの守備範囲を自覚しつつも、他のセクタと積極的に人的、知的、業務的に交流や連携などしている事例は、あればニュースになるような状態と云って良いでしょう。元々、チーム医療の概念が本格的に提唱されたのが 2010 年。医療法改正で薬剤師が医療従事者の扱いになったのが 1992 年。医療業界内での異業種連携それ自体の重要性が認識され、それが形になってきたのはつい最近のことと云って良さそうです。
 そして、実際の医療行為を受ける存在としての患者は、古くは専ら専門家からサービスを受ける存在であり、その選択権はほぼ専門家に委ねられてきました。近年になって、「チーム医療」や「地域医療」(→筆者には、さして意味のある概念とは思えませんが)などの言葉が踊る中で、患者中心の医療という考え方が徐々に普及してきており、診断を下したあとの治療方針の決定に際しては、医師が方針の選択肢を複数提示し、その中で患者が希望するものを選ぶことが、一般化しつつあります(勿論、昔ながらのいわゆるエラ医者が幅を利かせている事例も、まだまだ根強く残ってはいますが)。
 ただ、そうした医療現場における医療従事者と患者の関係の変容において、提示される選択肢が患者にとって満足できるものであるかどうかとなると、一筋縄ではないものもあるでしょう。医療従事者もピンキリなら、ひとくちに患者と言っても多様で、医療従事者が最先端の、又は比較的新しい手法を採用するか否か、患者がそれを希望するか否か、そのために必要な情報を医療従事者側が提供できるか否か、患者側にそれらの情報を咀嚼できるだけの下地があるかどうかにより、自ずと個々の場面はカスタマイズされたオーダーメイド型にならざるを得ないでしょう。

3)主な患者団体
 医療における手技や物質(治療薬、検査薬、医療器具及び衛生用品など)を供される存在としての患者は、左記の通り多様性を内在する社会的存在です。ただ、その患者なる存在になるにあたり、先天的か後天的かを問わず、同じ疾患に似た原因、異なる原因で辿り着く他の方々の存在は無視できないところです。自らの生と積極的に向き合いながら生きていける強さを持つ方々ばかりでもありませんが、精神的な苦悶の状況を乗り越えて、病気や怪我、障害などを受け入れて生きている人も多く存在し、そのうち一部の篤志の方々が同じ境遇の方々と繋がり、互助的組織を立ち上げて、継続的な社会活動に結びつけている事例もあります。
 日本にも、いわゆる患者団体と呼ばれる、そうした互助会として機能する組織が多くあります。
 そうした団体の中には、先鋭的な活動で注目を集めるものも一部にあり、また患者同士の強固なネットワークを作って“科学や医療の番犬”として機能している事例すらあります。

 ごく一部ですが、そうした日本の患者団体を列挙してみます。

患医ねっと株式会社
TRIO Japan
日本移植者協議会
Fabry NEXT
NPO がん患者団体支援機構

 全てを列挙すると大変膨大になりますが、患者団体の一覧が、下記のリンク先(これとて一部)にあります。
・難病情報センター 患者団体一覧
・日本製薬工業協会 患者団体検索
日本の患者会(WEB版)
・日本アレルギー協会 患者会について
・HIV マップ HIV お役立ちナビ(NGO・NPO)

4)主な医療系学術団体
 医療従事者同士の横の繋がりとして、最も著名で強力なものは、云わずと知れた日本医師会です。
 国政に於ける影響力の強さが耳目を集めることが多いのですが、本職の医業や、基盤となる医学(特に臨床系)、医術の思想的基盤となる倫理的側面に関する組織的取り組みの充実度には、やはり一日の長があると云うべきです。
 無論、医療は医師のみによって提供されているわけでもなく、それぞれの担い手同士の互助や連携、自己啓発や現場知の共有を志向する場や組織がそれぞれにあり、最近は少しずつ異業種交流も進んできています(医療系のインカレ学生組織の相互交流やその国際版、地域的取り組みとしては茨城県古河市のケアカフェを、事例群の一部として挙げておきます)。
 それぞれの団体の活発さやオープンさには濃淡がありますが、それらを概観しておくことには、意味があるでしょう。

 主な団体を挙げておきます(網羅まではしないゆえ、軽重の何れにせよ列挙漏れはあります)。このうち、日本薬学会では基礎科学的な内容もかなり扱っています。
日本医学会
日本医師会
日本薬学会
日本薬剤師会
・日本看護協会|日本看護学会
日本介護福祉学会
・公益社団法人 日本介護福祉士会 日本介護学会
日本移植学会こちらも参照)
日本人工臓器学会
・JSGCT 日本遺伝子細胞治療学会
日本生殖医学会

5)どんな活動をしているのか?
 日本の患者団体は、歴史的にはハンセン病患者の人権運動がその端緒と云われ、その後四大公害や各種の医療事件を経て拡大し、草の根運動として発展しています。およそ、疾患別、地域別、病態別に大別されるようですが、一部には医療機関付設や自治体主導、企業主導の団体もあるようです。主な役割は病気に関する啓発、患者同士の互助、対外的な情報発信と各方面との対話です(こちらを参照)。
 医療系団体は、学術団体と職業団体におよそ大別されます。前者はその多くが現場知の学術的体系化、技術の社会実装の知的体系化を志向しています。職業団体は文字通り職業別の互助組織ですが、やはり現場知の集積や体系化と対外的な情報発信に併せて、アドボカシー活動を展開する場合が多くあります。ただ、それぞれの職業団体が何をやっているかは、知名度の高い一部の例外を除き、いまいち見えにくいところもあります。

6)「患者」とは誰なのか?
 ところで、医療のクライアントとしての「患者」とは、医療にとってどのような存在なのでしょうか?
 先述の通り、現実的には、医療行為の受け手ではあり、医療の専門家による主義や物質の提供を受ける立場です。かつては専門知の非対称性による権力構造を前提にした捉えられ方、有り体に言えば“医療の専門家が医療を知らない患者に施すのが医療行為”という認識が強くありました。
 しかしながら、よく考えるまでもなく、何某かの専門知を抱えながら病気や怪我を患った人を、たまたまある文脈、ある場面で医療従事者は患者として迎えるわけです。時には、医療従事者自身が別の医療従事者にとっての患者になることも多々あるわけで、その意味で、そもそも“専門知の非対称性による権力構造”などはじめから虚構同然だったとも言えます。
 ガン専門医がガンを患った経験談が書物になるなどの示唆的な事例も沢山ありますが、左記の患者運動の影響や、科学の知的体系の流通が、“専門知の非対称性による権力構造”の虚構ぶりを再認識させている側面もあると思われます。そのことを最も認識していないのは、恐らく社会的な問題意識の低い、一部の医療従事者ではないかと、筆者には思えてなりません(その最たる具体例が、いわゆるエラ医者や低能な薬剤師、無駄にプライドばかり高い看護士、こころ主義に流れる医療団体の一部のお偉方だったりするのでしょう)。

 次回第5回では、医療や医科学の在りようを律する生命倫理について考えます。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

生命操作の問題(3);先端医療の光と陰

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、生命操作の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す限りで、6回分のエントリーを使って大雑把に整理してみたいと思います。

 3回目の今回は、実際の先端医療のいくつかに関して、その内容と陰日向を概観します。
 医療技術と、その基盤にある科学、実際の技術や治療法の運用と、その運用の場面にある問題を整理します。

1)治療薬開発―医薬品2010年問題
 2011 年のサイエンスアゴラで実施した「本音で語る“夢の薬”〜2010 年問題をぶっ飛ばせ〜」でも扱いましたが、現在、新規の医薬品開発は、特に低分子化合物のそれは、昔に比べて困難を極めています。自ずと抗体医薬や遺伝子組み替え産物などに、新規医薬品及びその候補はシフトしており、またドラッグリポジショニングと呼ばれる「ある医薬品を別の治療目的に用いる」試みも進んできています。とはいえ、世界の医薬品開発動向を見ると、第1相から第3相までの臨床試験において、行われている臨床試験の件数は漸増傾向ではあります(例えばこちらを参照)。
 現在、新規医薬品の主要な開発標的疾患は、中枢神経系の疾患(特にアルツハイマー型認知症、パーキンソン病)や各種のガンで、これに感染症(ワクチンなど)や筋骨格系(リウマチや骨粗鬆症など)、循環器系、免疫系、呼吸器系などが続いています(例えばこちらを参照)。
 元々、医薬品開発はハイリスクハイリターンであり、多大な年月と費用を投じて行われています。その中での開発競争は熾烈を極め、医薬品業界の合併や統合は近年盛んで、企業の大型化や多国籍化も進んでいます。そのことが、医療経済にもたらす影響も大きく、保険制度で賄われる国の医療費が外資系に流れたり、開発の費用と時間の増加に伴い薬価が急騰したりなど、医療そのものや地域社会の持続可能性に関わりかねない事態も発生しています。

 参考となるページを挙げておきます。

政策研ニュースこちらも参照)
・BB-Bridge
 2016年版 世界の抗体医薬品開発の方向性とビジネス展望
・CiteLine
 Pharmaprojects 医薬品研究開発動向レビュー 2016年
・日経 BP net
 MBA講座:なぜ日本の製薬会社は苦戦しているのか
・厚生労働省 医薬品産業ビジョン 2013
・Sclipintelligence Japan
 12300品目に:2015年医薬品研究開発動向レビュー
・JHSF 創薬基盤技術の最新動向を探る

2)臓器移植、人工臓器
 2010 年の改正臓器移植法施行後、脳死臓器移植の例数が急増しました。
 臓器移植とは、読んで字の如く、ある人の身体から摘出した臓器を、他人の身体に移植する医療行為のことで、ある種の病気や怪我のために特定の臓器が機能しなくなった場合、それを他人の臓器で代用するという狙いがあります。現在の日本の法体系下では、移植できる臓器に制約があり、健康な家族からの生体移植は胚、肝臓、腎臓(何れも部分提供)、脳死者や心臓死者からの死体移植は心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球(角膜)です。
 世界各国ではアメリカ、欧州各国、オーストラリアで普及している移植医療ですが、日本ではまだ比較的例数が少なく、2012 年現在で移植希望者にしめる移植者の割合は角膜移植の 58 %(=1,358/2,333)を除けば、軒並み 1〜10 %程度です。例えば腎移植が 1.4 %(=174/12,656)、心臓移植が 12 %(=28/231)という具合です。
 後述しますが、他人の脳死や心臓死、家族の重大な肉体的負担を前提にして成り立っており、それがもたらす社会的影響や倫理的問題は厳然とあります。他方、移植を受けた当事者は、一部の例外を除き、内服の免疫抑制剤を生涯に渡り常用することになり、その副作用や拒絶反応との闘いも待っています。他方で、移植により人生の繋がった患者にとっての生の福音や、その患者の人生が繋がることに拠る社会的利益もあり、臓器移植の是非や功罪を論じるのは困難です。
 他方、不足しがちな臓器を人工的な機器(人工心臓、人工透析装置など)の実装や、他の動物(ブタなど)で作出したヒトの臓器、培養細胞の3次元印刷で人為構築した模擬臓器の移植で対応することの研究なども進んでいます。前者は社会的インフラの問題(例えば公共交通機関での携帯電話の使用可否や、体外型人工臓器の提供施設による制約など)、後者はやはり別の倫理的問題(実験動物福利や、培養細胞の由来による倫理的問題など)があり、これをどうクリアするかも問題と云えば問題です。
 なお、輸血や献血も広い意味での臓器移植と捉えることは出来ますが、今回は別扱いにします。

 参考となるページを挙げておきます。

(臓器移植とは?)
・厚生労働省 臓器移植の現状
・日本臓器移植ネットワーク
 LINK1LINK2LINK3LINK4
・グリーンリボンキャンペーン 臓器移植の基礎知識
・日本移植者協議会 臓器移植の現状
世界各国の移植状況が知りたい
・アステラス製薬
 なるほど病気ガイド・移植(臓器移植)
(関連の技術開発)
・3D printer navi
 3Dプリンターで心臓の鼓動を再現
・自治医科大学 先端医療技術開発センター
 (こちらも参照)
(解説記事)
・CareNET
 心臓移植 件数は増加も、さらに増える待機者
2010年の改正臓器移植法により提供者数は大幅増
・ダイヤモンドオンライン
 なぜ日本では臓器移植が根付かないのか
(拠点)
・埼玉医科大学国際医療センター/臓器移植センター
・東邦大学医療センター大森病院 腎センター
(人工臓器)
・J-Stage 人工臓器(日本人工臓器学会)
・健康・医療館 人工臓器とは
・ドクターズガイド 家庭の医学 人工臓器
・国立循環器病研究センター 研究部 人工臓器部
・東北大学大学院医工学研究科 人工臓器医工学

3)遺伝子治療
 一部の先天性疾患では、遺伝子に何らかの異常があるものがあり、ある種の蛋白質が作られないことで発症するものがあります。
 例えば、アデノシンデアミナーゼ欠損症の場合を紹介します。ヒトの第 20 常染色体にあるアデノシンデアミナーゼという酵素の遺伝子における先天的変異に由来し、核酸塩基の一種アデノシンを代謝できなくなります。このため、細胞内に異常な代謝産物が蓄積し、それが T リンパ球で起こると、免疫不全症(SCID;重症複合免疫不全症)の原因になります。その治療法として、病原性を持たない特殊なウィルスにアデノシンデアミナーゼの遺伝子を挿入した DNA を入れ込み、それを人為的に骨髄の造血幹細胞に感染させて所定の遺伝子をゲノム DNA に導入し、その幹細胞を骨髄に移植するという操作を行った事例があります。この操作が、いわゆる遺伝子治療です。世界初の症例は 90 年にアメリカで行われ、日本でも 95 年に初めて実施され、その歴史がまだ浅いとはいえ、世に出てから 20 年を超えました。
 遺伝子導入の方法は、体外で導入した細胞を体内に移植する方法と、遺伝子導入に用いるウィルス(ウィルスベクター)を注入する方法の2通りがあります。前臨床段階の研究は日進月歩で、治療対象をガンの他、AIDS や生活習慣病(心血管系疾患)、筋ジストロフィーなどに拡げる試みや、遺伝子導入にウィルスを用いない方法の開発、ウィルスベクターの安全性向上の取り組みなど、様々な展開があります。
 この手法は、その技術自体の特殊さと、遺伝子操作を行うという内容ゆえ、現在は一部の重度の先天性疾患や、末期ガンなどに限り適用され、現状では実用化こそされ、普及しているとは言えないものです。しかしながら、有害な遺伝子の機能の抑制や、欠損した遺伝子の補充などにより、これまでは助からなかった病気の治療に可能性を見出す手法ではあります。現在の条件下では、遺伝子治療を行う対象はあくまで体細胞であり、この処置をした個人の中で遺伝形質の改変は完結するため、継代の遺伝的影響は発生しません。ただ、それが生殖細胞に影響する操作を行う場合や、iPS 細胞や ES 細胞に対して類する操作を行う場合(で、生殖器の再生医療に供する場合)には、遺伝的影響が原理的には発生し得ます。また、遺伝子の組み込みの段階で目的の遺伝子が想定通りにゲノム DNA へと挿入されない場合には、有害副作用につながります(フランスやアメリカで、白血病を併発した事例があるようです)。その場合の患者のケアをどうするかは、なかなかの難問でしょう。

 参考となるページを挙げておきます。

・中外製薬 (バイオのはなし)遺伝子治療とは?
・バイオインダストリー協会
 遺伝子治療とはどんな技術でどんな効果があるのですか
・アンジェスMG株式会社 遺伝子治療とは
・医療法人再生未来 遺伝子治療
・がん治療新時代 Web
 新たな局面を迎えた遺伝子治療
・大学ジャーナル
 脂肪細胞を使った世界初の遺伝子治療研究を開始 千葉大学
・厚生労働省 日本の遺伝子治療の課題

4)遺伝子編集、細胞治療
 用語の混乱が多少ありますが、細胞に遺伝子操作を施すことを総称して、ここでは遺伝子編集と呼ぶことにします。
 最近、ゲノム編集と呼ばれる技術が注目を集めています。CRISPR/Cas9 システム、TALENZFN など、生命科学の研究者や技術者以外には馴染みのない手法が幾つかあります。詳細はリンク先をご覧頂くとして、要は生物のゲノム DNA を人為的に改変することが出来る技術です。この手法は、基礎生命科学において、特定の遺伝子の生理的意義を網羅的に調べるための基礎的技術としてよく使われる一方で、遺伝子治療やウィルス感染治療に役立つ可能性も提唱されています。
 この手法は、広い意味での遺伝子操作の一種です。左記の3つの他にも、遺伝子組み換え法の CRE/LoxP システムが遺伝子改変動物の作成に使われ、遺伝子産物の生理機能や生理的意義の解明に役立つなど、遺伝子操作の技術は今や科学研究の世界で広く使われています。
 その遺伝子操作の応用による大きな成果の一群が、京都大学の山中伸弥さんによる人工多能性幹細胞(iPS 細胞)の構成です。この幹細胞は、卵割の進んだ受精卵から作られる幹細胞である胚性幹細胞(ES 細胞)とは異なり、体細胞にウィルスベクターを用いて遺伝子導入することで、その体細胞を脱分化させることにより作られます。ただ、その際に導入された遺伝子は、ES 細胞で特徴的に働いている4つの遺伝子(Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Myc)であり、その意味で iPS 細胞の誕生は ES 細胞の知見に多くを負っていると言えます。
 理研 CDB の高橋政代さんのグループによる、加齢黄斑変性の患者への人工網膜シートの移植手術に際して、その細胞シートは当該患者の体細胞に由来する iPS 細胞から作られました。その後、iPS 細胞の作成法や応用志向の前臨床研究は日進月歩で進んでおり、臨床適用に進むまであと一歩の所までは来ています。他方、ES 細胞そのものも基礎研究や前臨床研究は進められており、日本にはその供給拠点が2ヶ所あります(国立成育医療研究センター、京都大学再生医科学研究所)。
 遺伝子編集した細胞を用いた、細胞や組織の移植による移植医療は、まだ実績の僅かな、これからの医療です。その遺伝子操作を行うこと自体や、基になる細胞の由来がもたらす倫理的問題は、現在盛んに議論されている最中で、この技術を医療に用いること自体に対する違和感は、根強いものがあります。他方で、この技術がもたらす可能性に大きな期待を寄せる向きがあるのも確かで、知験に相当する臨床レベルの実証実験の段階をどのように着実に進めるかとなると、社会との相互作用の観点でもまた難しいところです。

 参考となるページを挙げておきます。

(遺伝子編集、遺伝子組み替え)
・コスモバイオ株式会社
 特集:ゲノム編集(Genome Editing)とは
・福岡大学理学部化学科 機能生物科学研究室
 遺伝子工学の技術
・サルでもわかる遺伝子組み換え
 遺伝子組み換えの基礎知識
・Alter Trade Japan
 遺伝子組み換えの何が問題?
(遺伝子改変動物)
・医薬基盤・健康・栄養研究所
 ノックアウト動物の作出
(ES 細胞、iPS 細胞)
・ライフサイエンスの広場
 ヒトES細胞研究・生殖細胞作成研究
・慶応大学 SKIP ES細胞
・国立成育医療研究センター 再生医療センター
・京都大学再生医科学研究所 幹細胞研究部門
・京都大学 iPS 細胞研究所(CiRA)
 →トップページ
 →iPS細胞とは?
・中外製薬 バイオのはなし「iPS 細胞とは?」

5)生殖医療
 生命操作と云えば、多くの方々が真っ先に思いつきそうなのが、生殖医療技術です。
 社会の成熟に伴う初婚年齢の上昇や、女性のキャリア形成困難などが背景にある中で、不妊治療の力を借りて、或いは子宝に恵まれ、或いは苦しみながら子どもを諦める女性が、今増えています。その歓びや苦しみの直面の基にあるのが、不妊治療に用いられる生殖医療技術という側面があります。
 一般的には、タイミング法から人工授精を経て、体外受精へとステップアップしていくことが多く、その際に排卵のタイミングを内分泌系に作用する医薬品で制御したり、或いは外科的操作で卵巣から卵細胞を採取して、或いは卵子と精子の自発的な受精を待ったり、或いは顕微鏡を用いた操作で精子を卵子に注入したりといった操作が行われています。
 更にその先の技術開発で、いわゆる「三人親体外受精」や、卵巣の一部又は全体を摘出して原子卵胞を人為的に活性化する人工賦活化法なども行われるようになりました。人工賦活化法は東京、神奈川、福岡の産婦人科において、全額自己負担の条件下で既に試行的に実施され、「三人親体外受精」の変種である「オーグメント療法」も大阪の産婦人科で行われています。ただし、何れも臨床研究段階にあり、実績としては無いに等しく、手法としての確立はかなり先になりそうです。
 生殖医療技術は、広い意味での細胞治療の一つであり、その細胞治療の中では最も成果を上げているものの一つと強弁することは出来ますが、やはり自然の摂理に添った妊娠や出産の流れを人為的に操作すると云うことそれ自体に対する違和感は根強く、それは思想的に向き合う市民活動家や人文社会系の研究者のみならず、実際に生殖医療を受けている当事者の間にも大なり小なりあるようです。技術としての確立の度合も、その成功率が年齢の減少関数という一面があり、その事実が当事者の女性にとっての苦しみの源泉になっています。

 参考となるページを挙げておきます。

(生殖医療とは?)
・日本生殖医学会
 生殖補助医療にはどんな種類があり、どこに行くと受けられますか?
(最先端特殊技術)
・ローズレディースクリニック
 IVA(原始卵胞体外活性化法)について
(Cf. こちらも参照)
・京野アートクリック(仙台)
 in vitro activation ( IVA:原始卵胞体外活性化法)
・HORACグランフロント大阪クリニック オーグメント療法 こちらも参照)
(3人親体外受精)
・WIRED
 「3人の親による体外受精」が英国で承認される
・Nature ダイジェスト
 「3人の親による体外受精」にゴーサイン
 LINK1LINK2LINK3
(生殖医療と生命倫理)
・日本医学会
 7.生殖医療と生命倫理
・シノドス
 生殖医療は「科学の濫用」か?

6)医療工学―エンハンスメント問題
 生命操作と云えば、生殖医療の次に思いつきそうなのが、身体増強(エンハンスメント)の問題です。
 不可逆的な運動障害(神経麻痺、脊髄損傷、脳梗塞後遺症など)で運動機能の大幅な低下、又は喪失した人が地力で歩けるようになる装置や、発話能力が失われた人のためのコミュニケーションツールの開発が、今進んでいます。
 先述の通り、以前から各種の埋め込み型人工臓器(人工網膜、人工関節、人工内耳など)で身体機能の代替を図る事例は少なからずありました。また、栄養剤や育毛剤、カツラ、豊胸手術と乳ガン全摘患者の乳房再建の関係など、身体機能の回復と増進の境目がハッキリしない事例も多数あります。
 医療行為を超えた身体機能の増強は、いわゆるエンハンスメント(身体増強)として、批判的な文脈で語られる場合があります。ただ、その“医療行為を超えた”ところの判断が何とも微妙で、論者たちの間でも合意が取れているとは言いがたい現状もあります。
 身体増強の行き過ぎがもたらす問題点として、最も分かりやすい事例の一つは、スポーツ選手のドーピング問題でしょう(想像に難くないと思われるので、ここでの補足説明はしません)。また最近、ドイツの走り幅跳びのパラ五輪選手がリオ五輪に出場することの是非で議論になったのは、記憶に新しいところです。他方で、身体機能の向上を人生の歓びにしている方が多くいるなか、それを実感できない境遇の人はどうする?(例えば、先天性の全盲者に人工網膜を施して、その人が見える歓びを感じられるか?など)という論点もあり得ます。

 参考となるページを挙げておきます。

(エンハンスメント問題)
・レオン・カス「治療を超えて」(こちら…元の報告書…も参照)
(BMI、BCI 関連)
・国立障害者リハビリテーションセンター研究所
 研究プロジェクト
・産業技術総合研究所 プレスリリース
 脳波計測による意思伝達装置「ニューロコミュニケーター」を開発
・大阪大学国際医工情報センター 臨床神経医工学
・京都産業大学
 “思っただけ”でアームが動く!?ーBMIと脳研究の世界ー
・理化学研究所
 長期安定性を誇るブレインマシンインターフェイス(BMI)技術を確立
 脳波で電動車いすをリアルタイム制御
サイバーダイン株式会社(ロボットスーツ)
・日本経済新聞
 iPSとロボで脊髄損傷治療 慶大とサイバーダイン

7)その他
 医療機器の開発でも、画期的なものが幾つか出ています。
 既に一部で実現している遠隔医療。病理診断や、定期診療レベルのもの(特に在宅診療)は既に運用されています。
 その遠隔医療を手術で実現した「ダヴィンチ」というシステムがあります。特定の技能を持った医師が、遠路その手術の現場に赴かなくても、その技能を原理的には全世界で発揮出来るというものです。既に実績を上げていますが、過誤発生時の責任問題どうする?という困難はあるようです。
 診断という面からは、膨大な医科学研究の蓄積の有効活用という側面から、人工知能による自動学習を通じた治療法探索の事例があります。先日の東京大学医科学研究所での事例は、ニュースで大変な話題になりました。ただ、これもビッグデータの扱いゆえ、その治療方針の正当性の根拠の判断と、過誤発生時の責任問題が懸念されるところで、最終的には人間である医師の判断になり、どう使いこなすかが課題です。
 医薬品や医療機器、治療法の開発をどのように管理し、運営していくかに関しての方法論は、まだ模索の段階にあるようです。規制面の問題、経済学的な問題、体制の構築と運営の問題などは、現在進行形で実践と議論の積み重ねが少しずつなされているようです。

 参考となるページを挙げておきます。

(遠隔手術)
・東京医科大学病院
 手術支援ロボット「ダヴィンチ」徹底解剖
・sign
 『AR医療』による遠隔手術で、医師たちは透明人間になる?
・ダイヤモンドオンライン
 地球横断手術も夢ではない 実績を積み上げることが先決 手術ロボット「ダ・ヴィンチ」
 LINK1LINK2
・NatureInterface
 [特別企画]遠隔医療を可能にするロボット手術システム--光石 衛
・MedSafe.net 遠隔医療における現状と課題

(AI のビッグデータ利用)
・engadget 日本語版
 IBMのWatson、わずか10分で難症例患者の正しい病名を見抜く。
・NHK NEWS WEB 国内初 人工知能が救ったがん患者の命

(プロジェクト管理)
・ARO 協議会 第4回学術集会プログラム

 次回第4回では、医療の受け手である患者や、医療の担い手である医療従事者について考えます。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

生命操作の問題(2);現在の生命科学の最先端

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、生命操作の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す限りで、6回分のエントリーを使って大雑把に整理してみたいと思います。

 2回目の今回は、現在の生命科学の様々な分野に関して、その内容を概観します。
 一口に生命科学といっても、医療や福祉に関係しそうなものだけで、その幅の広さが広大になり、しかしながら医療や福祉の特定の題材を初めから狙って基礎研究から開発プロジェクトを起こすことがそもそも困難であることを理解するのが、今回の目標です。

1)科学雑誌という社会的存在
 通常の場合、研究者が自らの研究成果を世に問う場は、学会年会などの研究会での研究発表や、学会及び科学雑誌における論文、研究成果をまとめた書籍などです。自然科学やその関連分野(医学、薬学、工学、農学など)の研究の場合、成果発表の殆どは科学雑誌における論文で行われます。
 研究者が自らの研究成果を科学雑誌に投稿し、掲載されるとその論文が研究成果として認められます。ただ、論文が世に出ることは、その研究成果が科学的な知として確立し、定着するための第一歩であり、論文や学会発表そのものが知の確立を意味するわけではありません(一部の製品の広告で、学会発表や論文掲載の事実が売り文句として使われることがありますが、その事実のみが製品の正当性の根拠になるかというと、大なり小なり微妙と云うべきでしょう)。

 さて、数多ある科学雑誌には、研究者業界内で共有されている格付けがあります。
 その格付けが存在すること自体の善し悪しはさておき、その格付けが論文そのものの信憑性の根拠として扱われている実態はあります。例えば、その論文の著者の信頼性や、業績そのものの正当性、その雑誌に掲載された事実がその論文著者の研究費申請にもたらす影響など、ことあるごとに研究者自身や業界関係者の実感するところとなるわけです。
 それ自体は単純な善し悪しでは片付けられませんし、研究成果を論文の数や格で測ることの是非も論点としてはありますが、現状では科学雑誌に掲載された論文が、研究者の社会に対する知的貢献の結実の1つの基本となっています。

 代表的な総合雑誌を挙げておきます。ご存じの名前がきっとあるでしょう。

Nature
・Nature - Scientific Reports
Science(日本語版はこちらに)
ProNAS U.S.A.
Scientific American(これの日本語版が日経サイエンス

2)分野その1;生化学・分子生物学
 代表的な雑誌を挙げておきます。
Nature Biotechnology
Cell
The Journal of Biological Chemistry
The Journal of Biochemistry

 生化学は生体を構成する物質の化学的性質を調べる学問、分子生物学は生化学に立脚して、生体物質の物理的、化学的性質が生命現象の発現機序にどのように関与しているかを調べる学問です。その延長線上に、蛋白質や核酸(DNA、RNA など)、糖鎖、脂質、及びそれらの構成要素(アミノ酸、ヌクレオチド、単糖類、脂肪酸など)や代謝産物の生理的影響、及びそれらを“加工”して得られた物質(各種の薬物、蛋白質工学や遺伝子工学の産物など)の生理機能の分子論的基盤を調べるところがあり、その視点が細胞や生体組織、個体に一段〜数段上がると、そこから先は生理学の守備範囲になります。
 遺伝子の実態が核酸(DNA、RNA)の塩基配列であること、DNA の複製や DNA から RNA への転写、RNA から蛋白質への翻訳、蛋白質の翻訳後修飾なども生化学や分子生物学の守備範囲で、それらの現象の機序にも未解明の部分が今なお少なからずあります。

3)分野その2;生物物理学、数理生物学
 代表的な雑誌を挙げておきます。
Biophysical Journal
・Biochimica et Biophysica Acta (BBA)
  - Biomembranes
  - Bioenergetics
  - Gene Regulatory Mechanisms
  - General Subjects
  - Molecular Basis of Disease
Biological Cybernetics
Journal of Mathematical Biology

 生命現象を物理学の視点(現象の定量的な記述や、物理量の時間変化及び空間分布)から扱う学問が生物物理学、生命現象の時間変化や空間分布の様子を数式に載せて理解するのが数理生物学です。前者は細胞内のカルシウムイオンの動態、神経細胞における活動電位の伝搬や細胞間の情報伝達、生体高分子(蛋白質、DNA など)の高次構造や分子動力学、生化学反応系のネットワークの動力学的な振る舞い、心臓や骨格筋などの筋肉の収縮、免疫系や内分泌系の細胞間相互作用などを扱います。後者は、一連の現象を量的に記述するモデルを考え、或いは基礎方程式から現象を記述して、その現象の合理的な説明を試みます。

4)分野その3;神経科学
 代表的な雑誌を挙げておきます。
Nature Neuroscience
Journal of Neurophysiology
The Journal of Neuroscience
Neuron
Brain

 文字通り、中枢神経系(脳、脊髄など)と末梢神経系(交感神経、副交感神経、他)を構成する細胞の性質やそれらの相互作用及びネットワーク、神経組織の機能や生理的意義、中枢と末梢との間の情報の流れやその制御、中枢神経における高次機能と部位、関与する細胞との関係などを守備範囲にします。
 古くから、その電気的な興奮を物理や数理の文脈で理解する試みが幅広く行われ、生命現象の数理モデルとの親和性が高い分野です。そうした基礎的な知見の応用可能性は広く、コンピュータの計算原理や各種の病態診断の根拠などに、得られた知が2次利用されてきました。最近は、神経系の機能に障害を持つ人(脊髄損傷や先天性障害など)の神経機能を外部装置で補佐するシステムも現れ、その動作原理の基盤になるのも神経科学の知見です。

5)分野その4;発生学、再生医療
 代表的な雑誌を挙げておきます。
Developmental Biology
Genes and Development
Developmental Cell
Stem Cells

 基礎的には、生殖細胞が受精後に個体になるまでの一連の機序や、組織(皮膚、血液、胃腸や口腔の粘膜など)の新陳代謝及び傷害後の組織再生の機序などを守備範囲にしています。細胞の分裂や増殖に関する基礎的な機序は生化学や分子生物学に多くを負っていますが、増えた細胞が特定の機能を持つ細胞に分化していく過程が、個体の発生や組織の形成及び再生の鍵を握っています。
 日本人がノーベル生理学医学賞を受賞した iPS 細胞(人工多能性幹細胞)や、その事実上の前段階にある ES 細胞(胚性幹細胞)の作出や、それらからの組織や臓器の形成もこの分野の守備範囲であり、また生殖医療における卵子や精子の状態や個体の生育なども守備範囲にしています。

6)分野その5;免疫学
 代表的な雑誌を挙げておきます。
The Journal of Immunology
Nature Immunology
Journal of Allergy and Clinical Immunology
American Journal of Transplantation

 基礎的には、個体及びそれを構成する物質群を外部から進入した異物から守る仕組みとしての免疫系の働きを対象とし、その免疫系を構成する細胞群(T リンパ球、B リンパ球、各種の白血球など)と、それらの細胞群が作り、他の細胞や異物などに働きかける物質群(抗体=免疫グロブリン、補体、サイトカイン、分化抗原群(CD)など)、各種の免疫現象(異物攻撃、炎症など)を守備範囲にしています。
 免疫系の働きは、個体の自然治癒力の一つの基盤としての意味を持つ一方、その影響による新たな疾患(花粉症、各種の過敏症、膠原病などの自己免疫疾患)の基盤としての意味を持ちます。医療との関わりでは、輸血における血液型の問題、ガンの発症、臓器移植における免疫抑制などが問題としてあります。

7)分野その6;その他
 代表的な雑誌を挙げておきます。
(再生医療)
Journal of Tissue Engineering and Regenerative Medicine
(BMI・BCI)
PROS Computatonal Biology
(遺伝子工学)
Journal of Genetic Engineering and Biotechnology

 再生医療は文字通り臓器移植が守備範囲。BMI(Brain-Macine Interface)や BCI(Brain-Computer Interface)は、神経障害を持つ人の運動機能を、コンピュータにより外部から神経系を介して制御する装置やシステムの総称。遺伝子工学は、考えている遺伝情報を DNA や RNA に人為的に入れて、遺伝子を“最適化”する手法のことで、遺伝子組み替えによる各種産物をどう作るかと関連しています。

 上記の一連の科学雑誌に掲載されている論文の多くは、基礎的な生命科学の知見の集積であって、それが直ちに医薬品開発や治療法の開発に直結するものではありません。そこから先の、病態の科学的な記述と解析を経て、それに働きかける手法とその妥当性を検証する作業が必要です。
 医療行為は、必要な訓練を受けた医療従事者でありさえすれば、誰がやってもその手順に従えば同じ結果を得るものでなければ、確立した医療行為として完結しません。科学の世界では、これを“再現性”と呼びます。同じ条件の病態に対し同じ処置を施して、同じ治癒効果が得られることを期待して、必要な医療行為を行うのが、臨床医療の基本です。その「同じ条件」「同じ処置」のところには大なり小なりブレがありますが、想定される範囲の変動に収まっていれば、効果があると判定するのが普通です。尤も、その「同じ条件」「同じ病態」を見出すことに大小の困難はあり、それが医療の有効性の問題にまつわる根元となっています。
 臨床医療は、確立した知見を総動員して(悪く云えば「在り合わせの寄せ集め」で)、病態を抱えて困っている患者のために最善を尽くすことが守備範囲です。そして、その守備範囲の地盤固めと、守備範囲を広げることもまた大切な営為であり、そこを担うのが医科学です。その医科学の基盤となるのが、各種の生命科学であり、また物理学や数学、統計学、情報科学だったりするわけです。

 次回第3回は、先端医療の光と陰に触れます。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月14日

科学祭を考える(5);日本の科学祭ネットワーク

 科学祭について考える5回シリーズ、その最終回は日本の科学祭ネットワークに関して考えます。
 明治期以降の日本では、国策による産業振興の流れで博覧会や見本市が盛んに行われるようになってきて、最近は見本市が殆どになりました。その一方で、理科教育の文脈で、その担い手同士のネットワークも地道な活動を続けており、その成果共有の場としての科学イベントが、博物館の特別企画や地域の科学イベントとして実施されてきました。その担い手同士をつなぐネットワークや拠点の一覧を概観してみます。

1)日本の理科教育ネットワークと博物館
 主なものを見てみましょう。全部を列挙すると膨大な量になるため、全体を概観できるサイトを主に挙げておきます。

<理科教育の学会関連>
日本理科教育学会
日本科学教育学会
日本物理教育学会
化学教育協議会(日本化学会教育普及部門)
日本生物教育学会
日本地学教育学会
・E-TOPIA(教育情報ポータルサイト) 日本の理科教育一覧

<博物館・科学館・水族館>
全国科学博物館協議会
全国科学館連携協議会
・国立教育政策研究所 主な博物館に関する全国的団体
公益財団法人日本博物館協会(全国の博物館一覧を記載)
・全国科学館連携協議会 加盟館の一覧
・ZOOMANIA(ズーマニア)
 全国の水族館一覧
 全国の動物園一覧
 全国の専門館一覧
・公益社団法人 日本植物園協会 植物園の情報

 全国津々浦々に、拠点は多数あります。これでも、恐らく全てを拾えていないと思われます。
 個人や市民団体の連合においても、例えば天文教育普及研究会日本初等理科教育研究会のように、独自でも活動しながら、加盟する個人や組織も熱心な取り組みを重ねている事例が多くあります。
 ただ、分野や担い手の枠を超えたつながりという面での厚みの差は、欧米の事例群との比較においてはどうしても出てきます。一連のネットワークはどこまでオープンで、そしてどれだけの成果を上げていて、その成果はどれだけ世に知られているでしょうか?

2)サイエンスアゴラ「広がりゆく科学のひろばの担い手たち」
 縁あって、筆者は 2013 年から、東京国際科学フェスティバルの実行委員を務めています。
 その取り組みとして、関係各位からの大きな協力を得ながら、科学コミュニケーションの祭典兼総合見本市であるサイエンスアゴラにて、日本各地の科学祭の担い手同士が相互に人的、知的に交流出来るための企画として、「広がりゆく科学のひろばの担い手たち」という企画を実行委員会として出展しました。

 それらの公式サイトへのリンクを以下に貼っておきます。
・2013 年の開催分(こちらを参照)
・2014 年の開催分(ブースと時間枠;こちらから報告書本文を参照)
・2015 年の開催分(ブース時間枠

 流れとしては、独自の単発というわけでもなく、サイエンスアゴラの黎明期に NPO サイコムのクレジットで実施した「広がる草の根サイエンスコミュニケーション」(2006, 2007 年の2度開催)と基本的には同じ考え方とデザインで組まれた企画です。
 構成としては、終日設置のブース出展と時間枠型の交流セッションの2段構えで、1つの企画にその両者がセットとなっている事例は、過去にも多くは無かったようです。ブース出展では、東京国際科学フェスティバルの基本理念と概要、開催報告に日本各地の科学祭の事例とその広がりを展開する展示をセットにしました。科学祭の事例群に併せて、過去に科学コミュニケーターの有志による連携互助組織である「横串会」がかつて担った“サイエンスカフェポスター展”のコーナーも、2013 年の開催では設けました。時間枠企画では、東京国際を含む5〜7ヶ所の科学祭による事例紹介と成果、問題意識の共有を図り、地域の枠を超えた連携活動の展開を視野に入れて、日本各地の科学祭同士のネットワーク化の端緒とすることを狙いにしました。

 2016 年のサイエンスアゴラでは、それが発展的に改組して、事実上の本部企画へと昇格し、以下のような形になりました。
・(ブース)広がりゆく科学のひろば
・(時間枠)サイエンスフェスティバルの担い手たちをつなぐ対話集会

 こうしてみると、日本の科学祭ネットワークは、国の助成を受けて始まった科学祭の担い手が主体となったボトムアップ式の連携として始まり、アメリカのそれに近い形で始まっています。ただ、国から連携そのものを打診されて始まったアメリカの場合とは異なり、地域で熱心な取り組みをする個々の担い手を紹介し相互応援するための地盤を築くことを当初から狙っていた点では異なるところもあります。

3)JASC 地域連携委員会とアゴラネットワーク
 2012 年1月に東京大学本郷キャンパスでの設立総会で産声を上げ、今年で5年目を迎える一般社団法人日本サイエンスコミュニケーション協会。そのプロジェクトの一つに「地域連携委員会」という組織があります。日本各地で行われている科学教育や科学の知識普及、価額を題材に含む対話や実践の場の設置と運営など、様々な科学コミュニケーション活動を地域密着型で進めている同法人会員のとりまとめと調査、研究、相互交流を図ることを目的にしています。
 これと併せて、その正体は未だに事実上不明なのですが、サイエンスアゴラを主催する科学技術振興機構の側で、各地の科学祭主催者や地域連携活動の担い手の方々をつなぐネットワークとして「アゴラネットワーク」なるものが形成され、動き始めているようです。

4)今後の展望
 第3期科学技術基本計画の策定により科学技術コミュニケーションの推進が国策となって以降、地域社会の中で科学の知識普及や理解増進、科学を題材とした対話や実践の場...それも、必ずしも科学の魅力や意義にとどまらず、陰の部分や負の側面への直視も含むもの...は徐々に増えてきています。かつて、日本の市民運動の文脈では、何かのプロジェクトや企業活動への批判や非難、反対運動といったものが支配的でした(それら自体が社会的に悪いものだというわけでは必ずしも無く、例えば四大公害問題や、企業活動のもたらす地域社会の影響としての健康被害問題や各種環境汚染などを社会に知らしめてきた功績は大きいと思います)。しかし、それらにとどまらず、科学の陰陽の両側面を大切にしていこうという動きは草の根レベルからでも着実に育っており、疫学調査への協力や防災教育の取り組みなどが、各地での科学縁日型イベントや地道な理科教育の実践と併せて、少しずつ増えてきています。
 このシリーズで再三述べてきたことに屋上屋を重ねますが、科学祭は、地域の枠で科学の魅力や意義を共有する営みを、祝祭の場として組み上げるような、科学イベントの有機的集合体です。そこには場の担い手が拠って立つ思想があり、その場に関わる人たちと思いがあって、それらが結びついて成り立っています。そして、その題材こそ科学ではありますが、大衆の科学理解増進(PUS)や市民の科学への関与の促進を通じた街興しとしての意味を超えて、その街興しの場には科学の専門家の社会参画の側面が色濃くあり、そして科学の専門家も専門分野以外の題材に関しては“素人”でもあるわけです。その場作りにおいて、専門知保持の非対称性が文脈依存的に時々刻々入れ替わることは普通にあります。その意味で科学コミュニケーションとしての科学祭の実践は、科学技術社会論において取り上げられ続けてきた PUS と市民参加の枠を超える営みとして、科学コミュニケーションそのものが本質的に持つ多様性や総花性をよく表現するものだと言えるでしょう。
 その左記の表現可能性は、必然的に科学祭という営みそのものの今後の可能性とも直結しており、よく言えば「何でもあり」にしていることによる理念的な危うさもある一方で、その「何でもあり」にしている“良い意味でのゆるさ”が異分野交流による文化的営みの新しい流れの源泉でもあるわけです。
 現状の科学祭が抱える課題として、各種芸術(造形、音楽、演芸など)との融合、低学力層や貧困層へのアクセスとその方法論、担い手の持続可能性、地域社会の特色の取り込み、地域の枠を超えた相互交流(人材、題材、既存の地域間交流との連携など)が考えられますが、それらも全て科学コミュニケーションの多様性や総花性に立脚した協調的創造から始まるものであるはずです。
 そうした厚みのある内容を、地域社会の中でどれだけ共有していけるかが、科学祭という営みの正否を左右しているのだろうと、筆者としては考えます。

 当会としては、科学祭や科学にまつわる地域連携活動に関しての実態調査や、それらの設計や運営に関する諸問題の実相に関する研究を、持続可能な範囲で細々と続けていきたいと思っています。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

科学祭を考える(4);世界の科学祭ネットワーク

 科学祭について考える5回シリーズ、その第4回は世界の科学祭ネットワークを紹介します。

 第1回でも少し触れましたが、現在の形の科学祭は英国で生まれ、世界各地に少しずつ広まっていて、典型的なものは英国、米国、日本、中国、豪州などで見られます。
 今回は、英国と米国における、科学祭の担い手同士をつなぐ互助組織を紹介し、そこからその2ヶ国の科学祭の実状を垣間見たいと思います。

1)英国
 さて、科学祭そのものの起源は比較的古い英国ですが、そのネットワーク化の動きは、実は比較的最近です。
 日本の日本サイエンスコミュニケーション協会(JASC)に相当する組織として、BIG(British Initiative Group)という団体があります。この BIG は科学コミュニケーション活動と手作り科学教育を守備範囲とする NPO 法人で、設立は 1992 年とまだ四半世紀ほど。その BIG の公式サイト中のこのページに、英国の科学祭の一覧があります。その総数は 34 あり、開催月毎のカレンダー形式で紹介されています。科学祭以外の内容も充実しており、全体を通読する価値は充分あります。
 この他、英国科学協会(BSA)による科学祭ネットワークとして UK Science Festivals Network という組織もあり、英国における国内各地の科学祭同士の緩やかな連合と相互発展を企図して活動しています。同団体は互助組織としての議論や能力開発のみならず、資金源や国政に対するアドボカシー活動も行っており、その展開は活発です。こちらにも英国各地の科学祭一覧があり、加盟する科学祭の総数は 32 にのぼります(一覧はこちらこちらに)。

2)米国
 米国で科学祭ネットワークと云えば、米国科学祭連盟(Science Festivals Alliance;SFA)が筆頭でしょう。
 その設立は 2009 年とかなり最近で、それまでは国内各地の科学祭自体の連携それ自体がなかったようです。元々、ある科学祭が政府の助成を得ようとした際に、単独の科学祭ではなくその連合体に対してなら助成する...という話になったのがきっかけのようで、その意味ではトップダウン型で形成されたと言えます。ただ、団体そのものはマサチューセッツ工科大学付属博物館の職員2名による任意団体で、その意味では草の根型の有志一同の延長にあるものとも言えます。2014 年現在で加盟している科学祭一覧は同年の年報に記載されており、その総数は 39(加盟者の協力する科学祭が6)にのぼります。一覧はこちら(同年版がこちらのファイル)にあります。

3)若干の考察
 英国では長い歴史のある科学祭も、地域社会への定着という観点に立つと、街興しイベントとしては恐らく後発組です。
 米国では科学祭の歴史自体が浅く、科学コミュニケーションそれ自体の重要性の認識自体が広まってきたのが前世紀末の 98 年以降で、米国史上初の科学祭の一つも 98 年に始まったようです(Wonderfest-The Bay Area Beacon of Science-...が該当)。
 何れも、国の助成を得て、大衆の科学理解(科学技術社会論の用語で、よく PUS と云われます;語源は Public Understanding of Science の頭文字)の文脈と、街興しを通じた文化的創出の両面から展開されており、そこに欧米では一般的な寄付の文化が載って持続可能性の源泉となっている場合が多そうです。
 そして、科学祭のネットワーク形成の歴史も科学祭そのものの歴史に比べれば浅く、その形成要因も英国はボトムアップ、米国はトップダウンという対比がありそうです。ただ、科学祭の担い手同士の連携に関する問題意識は恐らく元々それなりにあったと思われ、場作りの方法論に関する学びのニーズが自然発生的にあったものと推察されます。
 イベントそのものの知名度は恐らく高いと思われます。その傍証の一つになるであろう、こんな事情もあります。欧州では EuroScience Open Forum(ESOF;こちらを参照)が、米国では全米科学振興協会(AAAS)の年次総会が、各国で良く知られています。前者は欧州各国を隔年開催で、後者は北米各地を毎年開催で、何れも巡回して行われています。これらをモデルにしたイベントが、2006 年に日本で始まったサイエンスアゴラですが、ESOF を主催する EuroScience も米国の AAAS も NPO 法人であるのに対し、サイエンスアゴラを主催する日本の科学技術振興機構(JST)は国の独立研究開発法人(2015 年に独立行政法人から改組)です。
 そうした一連の事情から察するに、欧米では国策と共に市民や在野、科学研究や技術開発の当事者側の文化的な厚みがそれなりにあり、文化的営みとしての科学祭とその内容、華やかさ、持続可能性にもその厚みが大なり小なり影響している可能性が高いと思われます。しかしながら、個々の科学祭の発展そのものは地域の中で閉じており、地域の枠を超えた相互交流に関する意識は、近年になって高まってきたようで、その意識も文化的な厚みの中で徐々に醸成されてきたのかも知れません。

 第5回では、日本の理科教育と科学祭ネットワークの事情に触れて、全体をまとめます。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする