2016年09月18日

生命操作の問題(1);病気の治療法開発と生命科学

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、生命操作の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す限りで、大雑把に整理してみたいと思います。
 今回から6回分のエントリーを使って、順次まとめていきます。

 1回目の今回は、病気の治療法の開発の実態と、それに対する生命科学の寄与、およびその間に横たわる障壁に関して概観します。殊に、その最先端にある、いわゆる生命操作技術と称されるもの、およびその背後にある各種の医療技術と、その基盤にある科学との関係について考えます。

1)そもそも生命操作とは?
 博物学的な分類や形態記述から始まった生物学が、生化学や分子生物学、システム論的な構成論的生物学、情報学などとの融合や統合を経て、現在の生命科学の姿になったのは、90 年代後半〜今世紀初頭の時期と云って良いでしょう。その現在の生命科学において、DNA や蛋白質などの生体高分子、各種の細胞や組織、臓器、身体の一部を制御ないし交換することも、今や大なり小なり可能なものになりつつあります。かといって、産業機械の如く部品の交換が容易に出来ないのが生命体であるとの理解も進んできており、また部品の集積として生命体を捉えること...要素還元主義...に対する批判も、生命科学の研究そのもの、またその延長線上にある医科学や医療において、踏まえるべき常識になりつつあります。

 ただ、良くも悪しくも、生命体を構成する物質や組織、及びそれらの集積の様式に対する理解が、科学としての生物学、生命科学を進めてきたことは事実であり、科学はその対象に干渉し、これを制御することでその対象の理解を試みます。そうである以上、生体を構成する物質や組織を何らかの意味で外的に操作する行為は否が応にも行われることになります。

 多くの言説が、生命操作について、定義をし、論じています。一部を挙げておきます。

・NHK 福祉ポータル ハートネット 生命操作−復刻版−
・ALIVE 動物の生命操作と生命倫理
・日本学術会議 生命科学の全体像と生命倫理こちらも参照)
・森岡正博
 人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1)
 人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(2)
・京都精華大学 生命操作技術をすすめることの是非
・(書籍)教文社 生命操作は人を幸せにするのか

 論点は多岐に渡り、認識の大小の差異はありますが、概ね「以前は不可能だった遺伝子操作や生殖制御、生体機能の増強」を生命操作と定め、その内容や意義、問題点(特にその倫理的、社会的、経済的側面)を論じています。

 本稿では、生命操作を以下のように定義します。
[定義]
 何らかの意味で確立された科学的知見に基づき、生体高分子(蛋白質、核酸)やそのネットワーク、細胞やその集合体、生体組織の一部又は全部、生体システム(免疫系、神経系、造血系、生殖系、運動系など)に外的な操作を施すことで、その生理現象や生理機能を制御する技術的操作の総称。


2)治療法開発の流れと生命科学
 さて、何かある疾患があるとき、確立された治療法が存在する場合や、その治療法に改良の余地があって、利益が大きく害悪が少ないと期待できる場合には、医師はその治療法又はその小幅改訂版を採用し、他の医療従事者もその方針に従い、患者も...必要な説明を受け、同意すればとの前提で...その治療法を受け入れるのが普通でしょう。
 ただ、そうした既存の治療法及びその改訂版、組み合わせでは上手くいかないような場合には、新しい治療法を検討し、試すことが視野に入ってきます。既知の生命科学の知見を応用することで、その新しい治療法の開発が出来る場合でも、そこに研究の余地が発生する場合には、治療法の開発から臨床現場での適用に至るまでの道のりは、一筋縄でないことの方が普通です。ましてや、治療法の原理や技術の原理になる基礎的な部分の科学的知見に研究の余地がある場合には、その困難は更に増します。

 さて、そうした治療法が出来るまでの道のりは、どのようなものでしょうか?

 対照として、医薬品開発の場合を例に、その概略を述べます。
 外科的操作を伴う場合なども、およその流れは大同小異と言えます。

 新規の医薬品開発にあたって、最初にやることは、一般に標的となる病気に関して、その病理や病態、経過、及びそれらの発生機序を明らかにすること。次に、標的となる機序とその鍵を握る分子や細胞を特定すること。そして、一連の結果を踏まえて、それらの分子や細胞に作用する物質を徹底的に探索します。多くは低分子ですが、最近は分子量の大きなもの(500〜1,000 g/mol 程度)や、多量化した高分子(ペプチド、蛋白質)、及び生物試料からの粗生成物等(生薬エキス、死菌、生きた微生物など)を用いる場合もあります。
 次に、取り上げる物質が生体の構造や物性、生理作用を徹底的に調べます。その上で、培養細胞や実験動物にその物質を投与して、有効性や安全性の前評価を行います。ここまでが、前臨床試験と言われるものです。
 その段階を通過した物質が、いよいよヒトに投与される段階が、臨床試験(いわゆる知験)です。ある意味で文字通り、人間を素材にした動物実験の一面はあります(ヒト以外の動物で有効性と安全性を評価したあと、ヒトで同じことを行うという意味で)。3段階で行われ、少数の健常者を対象にした第1相、少数の有志の患者を対象にした第2相、多くの患者を対象にした第3相にわかれ、途中のどの段階で重大な問題が発生してもそこで終了という厳しさがあります。
 第3相臨床試験を通過した物質が、必要な手続きを経て承認されると、医薬品として世に出ます。そして、国の薬価基準に収載されると、処方薬として医者から患者の手に渡ります。
 なお、デビュー後にも市販後調査という審査があり、そこで引っかかるとデビュー後のオジャンもあり得ます。

 上記で医薬品を医療機器、外科処置に置き換えると、治療法開発は大筋で同じものになります。ただ、外科処置を伴う場合や、医薬品開発でも抗ガン剤の場合などには、第1相臨床試験において健常者を対象としないことが普通です。

 こうしてみると、前臨床試験までの段階で基礎的な生命科学の研究が大いに寄与し、臨床試験の段階でも素養レベルの生命科学や他の自然科学、数学、統計学などの寄与があることが分かります。

3)技術開発をめぐる社会の動き〜そこにある光と影〜
 最先端の医療技術に接する機会は、その内容にもよりますが、たまたまその対象になるある病気や怪我を経験し、その治療対象としてその医療技術にアクセスしうる条件に恵まれた人に限られることが普通です。ただ、その病気やけががある日突然、誰のところにやってくるかが事前に分からない以上、潜在的には誰でもその最先端医療にアクセスする可能性は大なり小なりあると考えるべきでしょう。多くの医療従事者や医科学研究者は、その前提で研究や開発、医療の実践を行っているはずです。
 ただ、科学的知見や技術が正しく適用され、それを希望する人にとっての生きる力になる幸せな事例ばかりでないのもまた、実態です。希望する人に希望通りに適用して、幸せな結果にならない事例は、最先端の場ではままあります。また、患者の側がそれをそもそも希望するか?という自己決定権の問題もあります。もともと標準医療であっても、その適用は手探りの側面が強く、一定範囲の不確実さはあります。それが最先端医療になれば、その不確実さは増します。そのことを受け入れることの出来る患者や医療従事者がどれだけ居るかとなると、現実的な難しさは更に増します。
 具体的な問題群は今後徐々に後述していきますが、そうした問題を直視して乗り越えるために、誰が何をどうしたら良いのかも、一筋縄ではないでしょう。

 次回第2回は、医科学の基盤となる生命科学の最先端の、ほんの一端に触れます。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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