2015年09月27日

研究費問題(6);何が問題なのか?

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、研究費の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す範囲で、大雑把に整理してみたいと思います。
 今回はその6回シリーズの最終回です。

 第6回の今回は、ここまでの議論を整理し、問題点の抽出を試みます。

 その前に、5回分の内容を整理してみましょう。
 第1回では、科研費の概要紹介と現状、及び問題点に関して取り上げました。科研費は現在の日本における最大の研究助成で、その対象とするのは全ての学問分野であり、その意味での門戸は広いのですが、新規課題の採択率が 20〜25 %程度と競争率は激しく、その意味では狭き門です。総額ベースでは、近年は伸び率が鈍化傾向ながらも右肩上がりではありますが、それ以上に応募件数が急増しており、採択課題1件あたりの助成金額は減少傾向です。長年に渡る制度改訂で、繰り越しや前借り、間接経費の導入など昔に比べれば使いやすくなってきましたが、審査の不透明性や支給先の偏り、制度変更頻回ゆえのわかりにくさ、応募のノルマ化の実態による現場の多忙化など、問題点も多くあります。
 第2回では、大型の競争的資金の導入と国立大学の運営費交付金削減の功罪を考えました。JST の戦略的創造研究推進事業や AMED、NEDO 等の大型研究助成が実施され、その多くは複数の研究機関にまたがるプロジェクト型研究の助成として機能しています。他方で、長年国立大学の財政を支えてきた運営費交付金の削減により、個々の国公立大学の財政は徐々に弱まってきた実態があります。競争的資金の観点から云えば、その運営の厳しさは私立大学も大同小異で、研究機関としての大学を維持する難しさは共通の課題です。そして、そこに科研費の間接経費の一部が大学の収入になる事実が絡み、現場の研究者=大学教員の多忙化に拍車をかけている実態もあります。
 第3回では、民間の研究費に関して取り上げました。その実態や全貌は実は余り知られていませんが、研究助成の総額ベースでは、民間の大学や研究機関に対する研究助成は、科研費のそれを上回ります。しかしながら、その使途(具体的には対象とする学問分野や、期待される成果の内容など)の制限や、1件あたりの助成規模、産学官連携における知的財産権の管理や利益相反の問題など、特有の問題群が存在します。
 第4回では、日本の研究パワーが低落傾向にあるという、衝撃的なデータをご紹介しました。研究成果の出力として論文数を考えることの是非は後述しますが、その指標を用いてさえ、日本の科学研究の活力が下がっていることを示唆する一連のデータは、危機感を抱かせるに充分です。併せて、日本の大学や研究機関における人材動向の推移や研究者の研究時間確保の困難など、研究パワーを低下させる要因もデータで実証されています。一見分かりやすくて魅力的な“科学技術イノベーションの推進”における、ビジネス的視座にたった“研究費の選択と集中”や“研究課題の重点化”が、必ずしも大学や研究機関にとって効果的に働いていないことを示唆するといえそうです。
 第5回では、日本の科学技術政策の近現代史を概観しました。筆者の筆力不足のため、概観としての力強さには欠けますが、日本の科学技術政策においては、社会(特に政財界、産業界)から成果を求められる形で、産業振興とリンクしての科学技術振興という側面が色濃く出ていること、及びその反動として基礎科学重視の姿勢もある程度は見えているものの、成果還元や社会参画、科学研究のオープン化の流れにあって、全体のバランス(基礎研究と応用研究及び開発、社会実装と社会との対話や社会進出、理解増進と社会参画)をどう取って良いかが試行錯誤の渦中にある様子が、それぞれ見えてきました。

 財政面に関して云えば、大学の財政基盤の強化それ自体は、各大学の関係者も文部科学省の側も、はたまた政財界も恐らくは重要視していることでしょう。しかしながら、現実には国公立大学にせよ私立大学にせよ、その財政面に関する現状には厳しいものがあります。ことは国公立の研究機関(独法など)も恐らくは同様で、その費用対効果に関して、社会からの厳しい目に曝されている一面はあります。
 昨今の産業界、商工業界における激しい国際競争ゆえ、国策としてイノベーション推進に血眼になる政財界関係者の本音は、理解できないわけではありません。しかしながら、:イノベーションそのものは、予定通り効率的に、また意図的に起こせるものではありません。況や、科学研究などは「未解決の科学的な問題に関して、その答え探しをして、探求法や成果も含めて、その正否を世に問う」一連の流れの中で、その成果が確立していくものである以上、イノベーション同様、やはり予定通りに成果が出るものではないと認識すべきでしょう。これらに関して、ビジネス的な PDCA サイクルで評価するやり方が正当なのかどうかに関しては、よく考える必要があるでしょう(というより、そもそも馴染まないと思われます。そもそも、PDCA は継続的に動いているビジネスにおける品質管理の手法です)。

 では、研究成果や個々の学問分野の意義を、研究費制度の支給側や運用側はどう評価すればよいのか? これまで通り、得られた成果や論文数で評価するのが良いのでしょうか? 恐らく、多くの方々が、これが最善でないことを良くご存じかと思います。1人あたりの件数は少なくても、その少数が特大ホームランという事例は、やっぱりあります(具体例はここでは挙げません)。これまで大きな実績を上げた研究者が、その後も実績を上げ続ける保障も、確実かと云われると否でしょう。しかしながら、基盤的な研究費の獲得のための競争は、多くの場合、大小の研究成果の存在が前提になります。
 ただ、代案はどうか?となると、専門家による総合的評価ということになるのでしょうが、それを万人が理解可能、検証可能な形で用意するのは、容易なことではなさそうです。
 この問題が、科研費や大型研究予算の、審査の不透明性の根っこにあると思われます。

 そして、研究費の制度運用に関して無視できないのは、以前から絶え間なく存在し続けた研究不正、研究費不正の問題です。
 文部科学省でも、各学会でも、個々の大学や研究機関でも、不正防止を含めた研究公正の実現や維持に向けての取り組みは多くあります(紙幅の都合で具体例は省略しますが、興味のある方は独自でお調べになるか、弊公式サイトのこちらをご覧下さい。文部科学省のページ2つ...こちらこちら...と、総務省のこちらこちらも参照しておきます)。しかしながら、その不正防止の取り組みとしての場当たり的な対応の積み重ねゆえ、研究費制度の不便化を招いている実態もあり、運用側の運用しにくさや、使う側の使いにくさに結びついている一面もあります。

 こうして色々考えてみると、1つの基本的な考えに辿り着きます。
 勇気を出して述べてみますが、結局のところ、根本的には基本的な理念が不在、又は十分に練られていないままで、国際情勢や社会の実状に振り回されて、場当たり的な政策や個々の対応を後付の理屈で正当化しているだけなのではないか? 科学技術のあるべき姿から話を起こして、個々の研究者にとって本当に研究がやりやすく、科学研究を支援したい人たち(政財界、産業界、商工業界、一般の市民)にとって、本当に支援がしやすい科学コミュニティをどう建設し、動かしていくのか。そこをきちんと考えられていないのではないか?
 研究費制度の問題に関して云えば、研究者にとって誠実な研究をしやすく、意図した研究成果を出しやすくするような研究費制度がどのようなものであるのかが、研究者の立場から余りキチンと考えられていないのではないか。
 いや、科学技術白書の書き手の皆さんは、総合科学技術会議や日本学術会議の関係者は、はたまた有志の一部の方々は、それを何とかしたいと思って、色々と試みを重ねていると思います。それはどのくらいキチンと形になり、有効に実っているのでしょうか。

 研究成果の評価は、いうまでもなく論文の数やインパクトが全てではありません。
 ノーベル賞級の研究成果を出しうる人材は、今の日本にも多く存在します。しかし、そうした方々が現状の日本の科学研究の場で、先人達と同程度以上に伸び伸びと活躍できるような、そしてそうした方々を思う存分支援できるような科学コミュニティが、今の日本にあるでしょうか?
 そして、そうした科学コミュニティを実現できるような、例えば税制やキャリアパス、法制度や財務制度が、今の日本社会にはあるのでしょうか?

 ことは、大学や研究機関、研究者だけの問題ではありません。
 政財界や産業界、商工業界、そして一般の市民などの側の意識や認識も問われているのです。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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