2013年08月03日

動物実験、何が問題なのか(3);動物実験をもし止めたら?その余波は?

 今年のサイエンスアゴラ出展企画「本音で語る生命倫理--動物実験なぜ必要?なぜ反対?」に関連して、その背景となる事柄を、4回にわたって整理したいと思います。今回はその3回目です。

 ここは一つ冷静に、生命科学の研究における動物実験の位置づけを考えてみましょう。

 医学や薬学、基礎生物学に限っても、血液循環や免疫、神経系、消化器系、筋肉、皮膚、骨格などの動物の基本構造に関する知識や、細胞の概念、細胞内での各種の代謝など、多くのことが知られています。ミクロにはセントラルドグマ(DNA→RNA→蛋白質)や各種のエネルギー代謝、アミノ酸代謝など分子レベルの現象、サブマクロでは組織レベル、臓器レベル、システムレベル(神経、免疫など)での生理現象、マクロには個体レベルでの各種の行動、身体運動の統制、集団組織内での協調や競争など、多くのことが分かってきました。
 それら基盤的な知識とその応用に依拠して、各種の医薬品や治療法、補助器具の開発や、生活様式の提案などが数多くなされてきました。特に医薬品や治療法の開発にあたっては、どこかの段階でそれらが人体に触れることが不可欠と考えられてきました。同様のことは、食品や化粧品、衣服の染料、玩具や調理器具、食器、特殊な労働環境下における各種物質の安全性評価などについても言えそうです。
 更には、生物の行動やシステムの特徴を抽出して得られた知が、例えばロボットの設計及び製造、各種のコンピューティングや通信技術、情報処理などの基盤となったりしています。
 変わったところでは、環境問題としてのサンゴの白化現象や死滅に対する地球温暖化の影響なども、サンゴを用いた実験から示唆され、それが我々の日常生活に大小の影を落としているという大きな側面もあります。

 化粧品の安全性試験や基礎医学だけが、動物実験を必要としてきた(...と研究者たちは考えてきた)わけでは、必ずしもありません。基礎的な生命科学においても、動物実験や、その実験結果に依拠して成り立っているあらゆる知が、基盤的な知を作ることの支えになっている一面があるのです。

 それを、動物実験無しで実現することが出来るのか?
 基礎的な生命科学の問題(例えば、これとかこれとかこれとか)を、動物実験全面禁止の条件下で、現実的にまたは原理的に、定式化なり解決なりすることが、果たして出来るのでしょうか?

 例えば、特に生化学や分子生物学、分子生理学などの研究を考える時、何かの生体高分子の高次構造や分子機能を調べることを考えてみましょう。目的の高分子、例えば蛋白質の構造や機能を調べるだけなら、今は遺伝子を拾ってきて遺伝子組み換え技術を用いて蛋白質を作らせるという方針がとっさに思いつくところ。しかし、その遺伝子組み換え技術に対する社会の認知や需要はどうでしょう? 必ずしも好意的ではないと思われます。
 恐らく、遺伝子組み換え技術に対するネガティブイメージは根強いものがあります。尤も、医薬品では遺伝子組み換え技術を用いたインスリンや各種ペプチドの注射製剤がすでにかなり出回っていて、多くの患者さんが日常的に使っています。いや、遺伝子組み換え作物の対環境暴露リスクに対する危機感だけが問題にされているなら、良いんですけど…。

 というふうに、周辺の色々なところへと、動物実験という営みに対する批判や反対は、影響して行くわけです。

 生命科学の基盤的な知はもちろんのこと、臨床医療に直結する医科学の分脈や、衣食住の安全に直結する安全性試験の分脈では、むしろ市民の側で動物実験を推進する動きすら実はあります。例えば、こちらの団体の取り組みでは、希少疾病患者支援の一環として、希少疾患のモデル動物を使った研究や、難病患者から採取した体細胞を用いて作成した iPS 細胞による基礎研究や創薬研究の推進などを支援しています。また、こちらに依れば、遺伝子組み替え農作物の普及に反対する文脈で、「遺伝子組み換え作物の毒性を確認するための動物実験は圧倒的に不足」という見解すら出ています。

 動物実験を止めていくという選択をするときには、こうしたことに真っ正面から向き合っていかないといけないのです。
 そして、向き合っていくことには、意味があると筆者は考えます。その結論が「動物実験を全部止めるのは無理だが、止められるものは止めていこう」になったとしても。

 それはなぜか。

 科学や技術の進歩が、人類を幸せにしてきたのか?という問題と、我々はどれだけ向き合えているのでしょうか?

 動物実験の問題を少し離れ、俯瞰して考えてみます。
 科学技術倫理という概念があります。例えば、名古屋大学のこちらを参照して下さい。文部科学省の科学技術基本政策のページにも、こうした記載があります。
 4大公害や薬害、医薬品の重大副作用問題は云うに及ばず、携帯電話やネット通信における個人情報保護の問題、自動改札や SF カードの普及に伴う個人情報の社会的流通の問題(昨今も、こうした事件がありました。関連の解説記事もこちらに)など、にわかには実感し難くも、実は深いところにある構造的な社会問題の源泉はゴロゴロあります。
 それらをイメージしにくい方々は、例えばこちらの本(あのサイエンスアゴラを事実上立ち上げた長神さんの著作「予定不調和」)をお読み頂ければ、“構造的な社会問題の源泉”というものが、おぼろげながらでも見えてくるのではないかと思います。

 動物実験において、同じような“構造的な社会問題の源泉”と言える何かの所在があるのかどうか。現在の筆者にはよく分かりません。
 仮にあったとして、それがどんなリスク(というか危険)を伴うものなのか。そのリスクと利益を天秤にかけると、本当はどうなるのか。そのことをよく考える必要はあるでしょう。

 ただ、このページで批判されているように、動物実験反対運動は「必ずしも当事者でない人が」「命や死と向き合う」がゆえに「欺瞞に陥りやすい」性格はあると思われます(そのことに対する危機意識を、実際の反対運動の担い手の方々は、どれ程認識していらっしゃるでしょうか)。とはいえ、「命や死と向き合う」ことそれ自体は、大いに意味のあることです。
 命と死の問題は、多くの人が垣根を超えて向き合うに、大いに値するテーマです。

 第4段では、全体の論点を整理して、今後の展望を考えます。
posted by stsfwgjp at 20:53| Comment(1) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 記事の筆者です。
 追記を一つ。

 そう云えば、ヒトゲノム計画の実施において、早い段階から ELSI(倫理的法的社会的問題)が考慮されています。
 取り組みの一例を
http://biobankjp.org/plan/elsi_com.html
に挙げておきます。
 動物実験の功罪の問題も、ある意味では ELSI の一つかもしれません。
Posted by SF2_jp at 2013年09月02日 23:09
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