2016年09月23日

生命操作の問題(6);何が問題なのか?

 今年のサイエンスアゴラ・研究問題ワークショップ「本音で語る」では、生命操作の問題を取り上げます。
 例年同様、問題群の背景や構造を、私見と腕力の許す限りで、6回分のエントリーを使って大雑把に整理してみたいと思います。

 最終目の今回は、過去5回分の記事を概観したうえで、何が本質的な問題であるのかに迫ります。

 まず、過去5回分の記事を概観してみましょう。
 第1回では、今回の主題である「生命操作」の語の意味を筆者なりに定義し、そこで想定される治療の方法論の成り立ちとその困難さについて、大雑把に考察しました。治療法開発の流れに関しては、医薬品開発をモデルケースとして論じ、他の治療法にも敷衍できること、治療法の社会実装に当たっては、患者との関係作りや、そもそも研究段階にあることに拠る不確実さの問題が難しさの本質であることに、それぞれ触れました。これらの概観だけでも、ある科学的知見が製品やサービスとして確立するという意味で「役に立つ」ことが如何に難しいかが分かりそうなものです。
 第2回では、「生命操作」や、医療現場での治療行為や病態の理解の基盤となる、生命科学の最先端のごく一部に触れました。時間の都合で分野の所在や扱う問題の一部、及びそれらの意義についての概観にとどまりましたが、如何にその裾野が広く、内容も奥深いかが、その分量だけからでも感じ取れることと、筆者としては思います。研究とひとくちに言っても多様で、臨床医療への道筋を辿っても、医療現場までの距離の遠近それぞれに知の蓄積があります。その積み重ねの一段一段と、積む段階、重ねる段階のそれぞれに、それを乗り越える難しさがあります。
 第3回では、具体的な題材群を7つ挙げて、実際の医用技術の開発や社会実装における現状と課題、論点を大雑把に整理しました。それらの全てに精通するのは困難であり、一つ一つの概観と整理だけでもそれぞれの分野ごとの専門家チームを要するほど、本来は大仕事です(というわけで、今回は各専門家チームの成果を有り難くつまみ食いしました)。この題材群のどれ一つを取っても、遺伝子や細胞、生体組織への外部入力による操作と、その科学的な体系、技術開発の原理、技術の社会実装、社会実装により期待される効果と生じうる問題点や価値衝突のセットが見て取れます。
 第4回では、医療の現場で「生命操作」の技術の効果を受ける存在としての患者と、技術を駆使する存在としての医療従事者の社会的な在りようについて考えました。20 世紀後半からの患者の権利拡大運動や医師患者関係の変容、医療従事者や患者それら自体の変容が、医療や医科学の進歩と平行している一面があります。それをこの拙稿でどこまで表現出来たか、筆者としては心許ないものがありますが、自らの身体を操作されることへの受容に際して、患者が医療従事者や医用技術をどこまで信頼できるかというのは、個別事例に限って具体的に考えても、なかなか難しい問題です。ただ、現在確立した標準医療であっても、どこかでデビュー戦が必ずあります。現在の最先端医療が将来の標準医療になれるかどうかは、研究開発段階にあればこそ、その予測の難しさがあります。
 第5回では、医療や医科学、その背後にある生命科学の研究において多々発生する関係性の発生と在りようの理想像を考える営みとしての、生命倫理や ELSI(倫理的法的社会的問題)を考えました。科学の成果の社会実装において一般によく言われることですが、科学研究でも技術開発でも「やって良いことと悪いことがある」わけで、何を根拠に誰がどう考え、その成果を社会でどう共有するかとなると、難しいところがあります。ことに「生命操作」の場合、伝統的な価値観と最先端科学の担い手の価値観には齟齬を来すことが少なからずあり、ブレーキとしての規範は必要であっても、進歩を止めることを選択肢に含めるとして、実際にある研究や開発を止めるのが“良い”のかどうかを自明には言えません。

 こうしてみると、ある生命科学の基礎的な科学的知見が、臨床医療の現場で治療法として結実するまでの間の道のりは、長く険しいものでことが改めて分かると思います。基礎的な生命科学の研究が知見として確立するまでの道のりだけでも、「本音で語る研究倫理問題リターンズ」のときに筆者が個人ブログで書いた記事の 3)、4) の項にあるように、長く険しいことが普通です。そして、基礎研究や応用研究を乗り越えた先の開発段階や実装段階にも、幾多の困難や新たに発生する問題が山積しています。
 そして、何故そうした問題が発生するかと云えば、そこで問題と向き合う人たちの真面目な思考と議論があるからだろうと思います。今回の連載でも随所にこっそり触れましたが、研究者、技術者、医療従事者の何れも、専門家の特質として“間違えたくない”わけです。この“間違えたくない”ことが、様々な問題の源泉となりうると思われます。
 そして、身体を操作される側の当事者である患者も、通常求めていることは、「症状の軽減、改善、若しくは除去」による「(それを望む場合の)生命維持」又は「生の充実及び質的な向上」であり、やはり“間違えたくない”わけです。
 ただ、医療行為そのものは、それが確立された標準治療であっても大なり小なり手探りではあり、その意味での不確実さは宿命としてあります。ましてや、最先端治療に近いところほどその不確実さは増します。最先端の医療行為は、未解決問題を大なり小なり含み、科学研究一般がそうであるように、ある種の不確実さを内包しています。

 そして何よりも基本的ながら忘れがちな事実として、研究者も技術者も、医療従事者も、患者も、みな人間です。
 その皆々が、それぞれの思いと取り組みに忠実でありながら、他の人たちの“役に立とう”と思って、忠実に生きているはずの存在です。専門家は他の専門家や社会、患者のために、患者は自らを必要としてくれる他の人たち(家族や友人、職場や社会活動の仲間など)のために、生きて何かをしているわけです。
 にも関わらず、なぜ様々な問題解決や課題達成の困難、価値衝突や事態の不整合が生じるのでしょうか?

 月並みな答えかも知れませんが、筆者が考えるに、“全体像を見えている人が少ないから”では無いかと。
 自分の属性(患者、医療従事者、開発に従事する技術者、生命科学の研究者、市民運動家、商工業界や行財政の人材、人文社会系の学識を持つ者など)以外の他の誰かが、本当のところどんなことを思い、考えているのか。そして自分の守備範囲のところで何が起こっているのか。それらを俯瞰しながら、自らの取り組みや立ち位置を認識することが、実は足りていない気がするのです。

 これまで「本音で語る」が取り上げてきたどの題材でも大同小異と筆者は感じていますが、今必要なのは対話を通じた問題意識の共有、それと他者に対する尊重に根ざした、学術的な意味での(個々の論点に関する)批判的検討では無かろうかと、筆者は考えます。

 そのための場を、筆者は多くの人と、手を変え品を変えつつ、持ち続けてきました。
 今年も、その場を秋に東京で持ちたいと思います。
posted by stsfwgjp at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・技術・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする